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ゆかりの地

お腰掛けの岩

後醍醐天皇が、元弘3(1333)年2月隠岐の島から脱出し、名和湊(現在の御来屋湊)に御着船になった折、この大岩にしばらくお腰掛けになったと伝えられている。

以前は海中にあったが、漁港の改修により位置を変えず海面から1.4m持ち上げられ、現在では陸の上に位置している。

後醍醐天皇の御歌の歌碑は、名和長朋(名和家30代当主)の書。

わすれめや よるべも波の 荒磯を
御舟の上に とめし心を

元弘帝御着船所碑

後醍醐天皇が隠岐の島から逃れて名和港に上陸した時に、戸屋家が自分の家に迎えて鶏の塒(ねぐら)に偽装して匿ったという。

それを後年、鳥取藩がその功を賞して安政5(1858)年に家の前に碑を建てた。お腰かけの岩のすぐ南の塒(ねぐら)さん宅(戸屋家はその功により、後醍醐天皇から塒という苗字を与えられている)。

名和公屋敷跡

「又太郎屋敷」とも呼ばれる名和公屋敷跡は、行高・長年父子2代の館跡の一部として残っている。本来の屋敷は西側を東谷川、東側を土塁と堀で区画された2反7畝9歩(約2,700㎡)の広さがあり、東に200mの長綱寺裏山が詰め城、的石付近を小門としたと伝わる。

館跡の一角にある名和神君碑は、鳥取藩主池田治道が建碑を命じ、その遺志を継いだ池田斉訓が天保6(1835)年に建立されたもの。碑文は寛政9(1797)年の藩士箕浦徳胤の撰文となっている。

的石

名和公の一族が弓矢の修練に使用した的と伝わる石。

船上山の合戦に少数の守勢で追手の大軍を撃ち破り、弓の名人といわれた名和公は、五人張りの強弓を引き、一矢で敵兵二人を射倒されたという。名和公が武芸の修練に大変力を入れていたことが伺われる。

船上山

船上山は、古期大山の火山活動で誕生した山で、比高差100m以上、延長600mに及ぶ溶岩流による断崖絶壁が形成されている。隠岐を脱出した後醍醐天皇を奉じる名和長年公と幕府側の合戦の際には、この絶壁が天然の要害となった。

船上山は平安時代以来の山岳仏教の聖地でもあり、今も約20の寺坊跡が比較的良好に残るが、元弘3年(1333)閏2月~5月に置かれた天皇の行宮所跡の最終的な特定はできていない。

名和公一族郎党の墓

名和長年公の菩提寺長綱寺の裏山にある300余墓の五輪塔。長年公船上山義挙に際し、戦死した一族を祀ったもの、或いは、館に残った一族の女性や子供たちの墓とも伝えられている。

後醍醐天皇が都を追われ足利尊氏の天下になったとき、足利氏の家来によって墓を荒らされるのを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋め、昭和5(1930)年に地元の農家の人により発見、発掘され現在の形に祀られている。

三人五輪

名和長年公が延元元年(1336年)京都大宮で戦死した後、家人の野坂、難波両人が持ち帰りこの地に葬ったと伝えられている。向かって左から名和長年、その子息義高(長男)、三男高光の首塚と伝えられる大型の五輪塔。

長年は京都大宮、義高は泉州堺(現大阪府)、高光は西坂本(現滋賀県)でそれぞれ戦死したものを家臣が持ち帰り、ここに祀った。

氏殿神社

名和神社の旧社殿で、元は名和長年公の館の跡と言われる地に、公を尊敬する地元の人が「氏の殿」として社を建てて祀っていた。

江戸時代鳥取藩主池田光仲公の命令で、「氏殿権現」として祀られ、明治6(1873)年氏殿神社となり鳥取県社となった。

敷地内には「故伯耆守名和君碑」が建っている。正面の碑文は、鳥取藩主池田慶徳の自筆。裏面の元禄3(1690)年8月の碑陰記は水戸藩士森尚謙の選並書になるが、何らかの事情で遅れていた。これを安政5(1858)年藩主池田慶徳の命を受けた鳥取藩士正墻薫が建碑したものである。

元禄3(1690)年の碑陰記は、水戸光圀による神戸の湊川神社のものより2年古く、南朝忠臣の顕彰碑文としては、わが国最古のものといえる。

名和長年戦没遺跡

名和長年公が討死を遂げた地。

名和長年公が明治16年(1889年)に正三位、昭和10年(1935年)に従一位を追贈されるに際し、記念碑や鳥居、宮が建てられ、英雄を祀る聖地として、一般人は立ち入ることが出来ない場所となっていた。

戦後、宮は破却され、大宮通りが正面入り口である。現在は児童公園となっている。