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名和長年公のご生涯

名和長年公の家系

名和長年公のはじめの名前は長高。村上天皇の後裔であり、村上天皇の第七皇子具平親王の長子師房にはじめて源の姓を賜った。

「昌明(行明の父)は、御家人として頼朝からもらった但馬の太田荘に城を構えて晩年を過ごしていたが、やがて頼朝も没し、承久3年(1221年)になると後鳥羽上皇は討幕の兵をあげた。

昌明は都に近い但馬にいたので、早速宮方へ協力するよう上皇の使者の強力が訪れた。しかし、昌明は「頼朝には恩がある」といって、この使者を斬り捨て自分は山奥の砦に籠城してしまった。世にこれを承久の乱という。昌明は周囲敵の中で孤独奮闘し、幕府側が勝利した。頼朝未亡人の政子は、非常に感激してまだ正式な情報が入る前に昌明を但馬守護に任命したとある。」

  

後醍醐天皇のお迎え・船上山の戦い

元弘2年(1332年)3月、北条高時が後醍醐天皇を隠岐へ遷し奉り、加えて隠岐の判官佐々木清高に御生命を落とし奉れと密命した。これをお聞きになった帝は、長年公の弟泰長を召して、兄(長年公)と義兵を挙げ自分を護って要害の地に還せと仰せられた。そこで、泰長は諸準備のため急ぎ出雲へ下ったが事破れて自害した。

翌元弘3年(1333年)2月23日、帝はひそかに行宮を出て、千波の港から漁船で逃れ、28日伯耆の港に入り、長年公の邸に勅使を立てて救いを乞われた。長年公は感激して直ちに一族郎党を駆り集め、帝を船上山に迎え奉った。急のこととて自家の糧米五千石を山上に運ばせ、残りを焼き捨てた。賊軍に利用されるのを恐れたのである。

翌29日に賊軍は追手、搦手の二手に分かれて山を攻めたが、官軍の善戦に攻めあぐねているうちに、近郷近国の武士もはせ参じて賊軍を追い払った。

長高(長年公)を左衛門尉に補し名も長年と改めさせられ、3月3日には伯耆守に任じて本国?を賜った。また15日夜、長年公をお召しになり、自分が今度の難を逃れたのは海上であり、しかもこの地は船上山、自分を船に例えれば、汝は水「三心相応の謂れあり船を以て吉事とす」とお言葉があり、家の紋章を改めよと帆懸舟の紋章を賜い、併せて御文と

忘れめや よるべも波の荒磯を
御舟の上に とめし心を

の御歌を下された。

帝は伯耆御着船以来、約70日の間船上山にお留まりになっていたが、京都の争乱も静まったので、5月25日船上山をお立ちになって山陰道を東へ、書写山などを経て京都に遷幸されたが道中は長年公の一族が御守護申し上げた。

  

建武の新政

長年公は8月3日、楠木正成とともに決断所の議定官に任ぜられた。

建武元(1334)年正月、長年公は因幡・伯耆の守護に任ぜられ、従四位以下に叙せられたが、嫡男義高も正五位上に叙せられて、左京大進検非違使に任ぜられた。

同2年藤原公宗が北条の残党と謀反を企てたが、長年公は勅命を受けてこれを滅し、その10月には足利尊氏が反軍を起こしたので、長年公は楠木正成と力を合わせて帝をお護りした。

  

名和長年公の最期

延元元年(1336年)の正月、足利尊氏が京に攻め入った。長年公が兵を集めて勢多に着いた時、すでに大渡、山崎の官軍は敗れて帝を延暦寺に移し奉っていた。長年公はそれを聴き、そのまま帝のもとに落ち延びるのを潔しとせず、群敵を追い散らしながら京へ入り、内裏を拝して落涙にしばしくれたのち、陽明門から引き返して帝のもとに戻った。

正月27日長年公は楠木正成、親光等と二千余騎の小勢で、賊将上杉、畠山等の五万騎を敗退させた。高氏も敗れて鎮西に逃げたが、5月再び来襲、官軍は戦い不利で長年公の執事内河真信、内河右員、右弘等が討死した。

その後官軍の将、脇屋、土居、得能、仁科等とともに賊将吉良、石堂、仁木等を破り、6月8日官軍は再び京に入った。

これを見た京童が、「三木一草(楠木、結城、伯耆、千種)がわずかに1本だけになった」と囃し立てた。長年公は、自分一人が生き残ったのは恥ずかしい。この戦いがもし不利なら自分は一人だけでも戦い抜き、討死しても良いと決意、六条大宮から進み賊軍20万騎と戦いついに味方の諸将士と離れ、今は死すべき時だと一族郎党と群がる敵を懸散し追崩したが、刀折れ力尽き、身に数多の創をうけ延元元年6月晦日ついに自刃して果てた。一族郎党も討たれあるいは自害してみな殉死した。

  

名和長年公の死後

この戦に不参の一族のうち四男の高光は西坂本で、高国は恒良親王に従って越前坂南で戦って討死、義高の嫡男顕長と従弟顕興等は征西大将軍懐良親王のお供をして肥後八代に下り、尽忠の誠を尽くした。

子孫は肥後或いは筑後に住して数十代を経、終には筑後柳川藩立花氏に仕え、家系は今日まで続いている。