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名和神社について

御由緒

長年公の御名は初め長高といわれ、村上天皇の第七皇子具平親王を源とする村上源氏の流れを汲む。鎌倉時代の中頃、曽祖父行明の時に但馬から伯耆に移り、汗入郡長田に居を構えられた。父行高の時に名和の庄に移り、名和氏を称す。

当時の公について、『太平記』など古文書は筆を揃えて「いとまうに富めるが類ひろく心もさかしく」、「家富一族広くして心かさある者」と書き記しており、公が諸業の振興に力を尽くし、また思慮深い人柄であったことが窺われる。

元弘3年(1333)閏2月23日、前年鎌倉幕府によって隠岐に流されておられた後醍醐帝がひそかに島を遁れ出られ、公に救いを乞われた。公は直ちに帝を船上山へお遷しし、一族郎党を集めて、攻め寄せる幕府軍から帝をお護りされた。

帝は殊の外お慶びになり、公の名を長年と改めるようおおせられた、左衛門尉、伯耆守に任じられた。また、自分を船にたとえれば汝は水、「三心相応の謂れあり船を以って吉事となす」として、家紋を改めよと手ずから帆かけ舟を描かれ、御製とともに下された。

忘れめや よるべも波の 荒磯を
御舟の上に とめし心を

その後、名和氏屋敷跡の一小祠に始まり、氏殿神社、名和神社へと場所を変え、長年公は祀られるようになった。

御神徳

諸産業振興
学業成就
勝負事成就

ご崇敬

皇室
小松宮彰仁親王殿下:明治34年4月
皇太子殿下(大正天皇):明治40年5月
韓国李王釁垠殿下:明治43年7月
皇太子殿下(昭和天皇):大正6年7月
秩父宮雍仁親王殿下:大正14年3月
三笠宮百合子殿下:昭和6年10月
久邇宮多嘉王同妃両殿下:昭和8年7月
澄宮崇仁親王殿下(三笠宮):昭和8年8月
高松宮宣仁親王同妃両殿下:昭和9年11月
久邇宮俔子殿下:昭和10年5月
竹田宮光子殿下:昭和13年8月
東久邇宮稔彦王殿下:昭和14年4月
常陸宮正仁親王殿下:昭和28年4月
清宮貴子内親王:昭和30年3月


外務大臣 原 敬
陸軍大将 乃木 希典
海軍大将 東郷 平八郎
逓信大臣 後藤 新平
文学博士 黒板 勝美

  

創建の歴史

承応・明暦(1652〜1657)
長年公の遺徳を慕う地方の崇敬者が、名和村地内の名和氏屋敷跡に一小祠を建立して、長年公を祀った。

延宝5年(1677)

長年公に崇敬篤い鳥取藩藩祖池田光仲候は、ほど近い日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営された。
長年公を併祀、氏殿権現と称された。

明治6年(1873)

社は県社氏殿神社となる。

明治11年(1878)

名和神社と改称され、別格官幣社に列せられた。

明治16年(1883)

長年公時代の米蔵跡地である長者原に崇敬者有志により新社殿の造営が図られ、完工。現在地に奉遷された。
※この地は、元弘3年義挙の時、倉を焼き捨てた所であり、今も地底より焦米古釘などおびただしく出づるとの言い伝えがある。

昭和7年〜10年(1932〜1935)

大規模な社殿が新たに造営された。

昭和10年(1935)

名和長年戦没600年祭が執行された。

昭和61年(1986)

名和長年戦没650年祭が執行された。

令和18年(2036)

名和長年戦没700年祭(予定)